第42話 番外編 連絡係の光秀と兼見郷記

ガラシャ

前回、比叡山延暦寺に逃げ込んだ朝倉・浅井軍を包囲し始めた織田軍。光秀は、幕府の奉公衆として幕府軍との連絡係になりました。連絡係っていつからやっていたんですか?


憲三郎先生

史料には具体的に日にちは記されていません。ですが、元亀元年9月26日に帰陣とあるので少なくとも9月27日以降だと思われます。


ガラシャ

あれ?この時の帰陣ってどこに帰ってきたんですか?


憲三郎先生

この後の光秀の様子を見ると、京都のことだと思われます。


ガラシャ

いつまで連絡係をやっていたのでしょう?


憲三郎先生

12月13日に和睦がなり両軍が撤退することになので、12月12日頃まででしょうね。


ガラシャ

ということは約3ヶ月ですね。その間はどこにいたんですか?


憲三郎先生

前回も少し出てきましたが、勝軍山城に駐在していました。


ガラシャ

どんなお仕事をしていたんですか?


憲三郎先生

史料には詳しくは載っていません。しかしその時の様子をうかがえる史料がありますよ。


ガラシャ

教えてください。


憲三郎先生

光秀はこの頃から、吉田家との往来が始っていました。


ガラシャ

吉田家?


憲三郎先生

吉田家は、吉田神社の神官で信長接待役の朝廷役人でもある家です。吉田家の子息の兼見は細川藤孝とは従兄弟なんです。


ガラシャ

兼見はなんとなく聞いたことがあるような・・・。


憲三郎先生

光秀と吉田家の濃密な関係は兼見の日記『兼見卿記』で知ることができます。


ガラシャ

『兼見卿記』!聞いたことがあります!


憲三郎先生

ガラシャ

ということは?


憲三郎先生

勝軍山城にずっと詰めていたというわけではなかったようです。


ガラシャ

ところで、石風呂というのは普通のお風呂と違うんですか?


憲三郎先生

石風呂とは石を焼いて水を注ぎ、その湯気を浴びるもので、現代のサウナ風呂のようなものです。


ガラシャ

サウナ!?この頃からあったんですね。お風呂を借りられちゃう仲というのはとても親しく感じます。


憲三郎先生

そうですね。そのほかにも光秀と吉田家の関係がわかる史料があります。


ガラシャ

気になります。



ガラシャ

何のための人足だったんですか?


憲三郎先生

宇佐山城の修復のためだと思われます。


ガラシャ

石風呂だけでなく、お見舞いに来てくれたり、人手を貸してくれたり、仲良しですね。


憲三郎先生

元亀元年11月に始まった光秀と吉田家の深い交流は、この後も光秀の死に至るまで続きますが、この関係の深さは兼見が細川藤孝の従兄弟という理由だけではないように思われます。


ガラシャ

確かに、上司・同僚の親戚というより親友や家族に近い間柄のように感じます。


憲三郎先生

そうですね。兼右と光秀は同い年ですしそれに近い関係だったのかもしれません。


ガラシャ

ということは『兼見郷記』には光秀のことがたくさん書いてあるんじゃないですか?


憲三郎先生

兼見の日記『兼見卿記』は元亀元年六月から現存していて、それ以前の交流の記録は残っていません。父の兼右の日記もわずかな期間分しか現存していません。


ガラシャ

現存ということは残っていないだけであるかもしれないって事ですか?


憲三郎先生

そうです。もし兼右・兼見の日記が欠けることなく現存していたら、間違いなく光秀に関する重要な記事が発見されると思います。


ガラシャ

光秀と吉田家との交流がもっと詳しくわかるもしれませんね!


憲三郎先生

実は本能寺の変のあった天正十年の『兼見卿記』には、正本と別本があるんです。


ガラシャ

え?本物と偽物って事ですか?


憲三郎先生

どちらも兼見が書いたものです。


ガラシャ

・・・ん?どうゆうことですか?


憲三郎先生

正本は、天正10年の正月から年末まで、別本には、天正10年の正月から6月12日までの記録があります。


ガラシャ

あ!本能寺の変ですね!


憲三郎先生

そうです。兼見は6月13日には、光秀が敗れたことを聞いて、6月14日には、織田信孝の使者と称する津田越前入道が「光秀が禁裏・五山へ配った銀子が怪しいので詳しい事情を聴きたい」と兼見邸を訪れています。


ガラシャ

たしかに、仲が良いと知っていれば「何か知っているかも」と思いますよね。


憲三郎先生

そこで、兼見は津田の再訪・家宅捜査という事態に備えて『兼見郷記』を書き換えたのかもしれません。


ガラシャ

正本と別本はどちらが先に書かれたものですか?


憲三郎先生

別本が先に書かれたものです。


ガラシャ

6月12日まで書いて13日に光秀の死を知る。


憲三郎先生

そうです。別本に書かれていた光秀とのやり取りの記録に、見られたくない不都合があったので、慌てて書き直したのかもしれません。


ガラシャ

でもひとつ気になるのですが・・。


憲三郎先生

なんでしょう


ガラシャ

本能寺の変を起こしたときではなく、敗れたと知ったときに書き直したんですよね?


憲三郎先生

日付を見るとそうですね。「この日に、たまたま紙がなくなった」との説もありますが、よりによって「この日にたまたま紙がなくなった」というのは、ちょっと不自然ですね。


ガラシャ

ということは、兼見は本能寺の変が起きることを知っていた、もしくは光秀が敗れない、敗れる可能性は低いと思っていたということでしょうか?


憲三郎先生

史料が足りないので断言はできませんが、欠けた日記や、もっと他の史料が出てきたら裏付けがとれるのかもしれませんね。
光秀が敗れる話は随分と先ですが、また、その時くわしく説明しましょう。


ガラシャ

ん~気になりますね・・・。もっと史料が発見されることを祈っています。

”この頃から交流のあった兼見の日記『兼見郷記』は
大事な史料です”

 

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